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岸岳城へタイムスリップ

 鎌倉時代初期(本城は室町時代の中期頃)の築城と推定され、中世山城の遺構を残す貴重な城郭遺跡です。波多氏が滅びて400余年、荒城に立って往時を偲べば、中世以降、水上水軍として国内外にその名を馳せた松浦党の活躍が彷彿として脳裏にうかびます。

 戦国時代上松浦地域を治めた波多氏の居城として、岸岳城の他にもう一つ、北波多に大きなお城があります。それは通称「波多城」と呼ばれ、稗田の波多八幡神社裏山一帯に広がっています。

 岸岳城が石垣造りの城であるのに対して、波多城は土造りの城という特徴を持ち、土塁・堀・切岸(人工的な崖)で厳重に守られています。また、岸岳城を山城とするならば、波多城は里山城とでも言うべき存在で、家臣団は、この城周辺で日常生活をおくっていたと考えられます。さらに城の裾、つまり稗田一帯には城下町が広がり、職人や商人で賑わっていたことが、「鉄砲町・門の前・馬場跡」という地名から窺うことができます。

 お城はなによりも防御のための施設ですので、危機に臨めば、敵が攻め難いように改修を繰り返すことになります。発掘調査でもやはり2回の大規模改修が確認され、また炭化物を含んだ土や強い火を受けた陶磁器の破片が出土することなどから、波多城も戦乱の渦に巻き込まれた時期があったと考えられています。

 波多城全体では、14世紀後半〜15世紀中頃(南北朝〜室町前期)と16世紀代後半(戦国時代)の陶磁器が最も多く出土しています。このことから波多城の歴史は、室町時代までは溯ることができ、少なくとも百数十年間は存在していたと言う事ができます。

 北波多地域は、上松浦党の盟主であった「波多氏」の本拠地として栄え、城跡や古窯跡などの歴史遺産が数多く残っています。
戦国時代、波多氏は一時期壱岐をも支配下に治めるほどの勢力を誇りましたが、豊臣政見により取り潰され、江戸時代、唐津城が築かれることにより、唐松地域の中心地は唐津へと移りました。
昭和の時代へタイムスリップ

 昭和33年(右写真)、昭和38年(上記写真)当時の徳須恵地区の風景です。石炭産業により発展し、商店が軒を連ねていました。当時は1万人を超える人口があり、炭坑関係施設(病院や保育園、集会所、娯楽施設など)も多くあり、賑わっていた様子が伺えます。しかしながら、炭坑の閉山と共に人口は減少に転じました。

 石炭は徳川時代の末期から昭和中期までの約百年間、燃料・エネルギー源として日本の経済を支えてきた重要な資源でした。 松浦川・厳木川流域の地下はその石炭の宝庫で、石炭産業は長い間、唐津の主要な産業の一つだったのです。

 石炭は享保年間(1716~1735)岸山字ドウメキから、一農夫により偶然発見されたといわれています。佐賀県最初の発見であり、唐津炭田開発の端緒を開いたものとして知られています。

 明治18年(1885)に開抗された芳谷炭抗は、明治、大正、昭和にわたり、佐賀県第一の大炭鉱として名実ともに最高の施設・設備を誇りました。最盛期には従業員2,000名を擁し、炭鉱関係の建物はもちろん、病院・学校・劇場・商店などが軒を連ねて立ち並び、北波多は大いに賑わいました。

 大正9年(1920)には北波多の人口は1万7,000人を超えました(現在は約4,700人)。

 昭和8年(1933)に芳谷炭抗は閉鎖され、終戦後に開抗された北波多内の他の炭鉱も、石油へのエネルギー転換等による石炭不況により、昭和37年(1962)7月に全て閉山となりました。

 採掘された石炭は、川舟で松浦川河口の満島まで運ばれていました。しかし、大量輸送の必要から、明治45年(1912)、山本支線とし開業した「岸岳線」。石炭積線として山本―岸岳間3.94㎞が開通しました。当初は伊万里まで延長計画がありました。

 炭鉱の盛況により旅客の往来も頻繁となり、大正2年9月21日には一般旅客の輸送営業も開始されました。 昭和46年(1971)に国鉄岸岳線は廃線となりますが、岸岳線が北波多に与えた経済・交通・文化上の恩恵は計り知れません。

芳谷炭坑は明治18年(1885)に、ここ北波多の芳谷に竹内綱、高取伊好ほか数名が近代的技術を導入して発足させました。

 この「第三抗」は明治39年(1906)に開削されました。良質炭である芳谷炭の名声は内外にあがり、明治44年には三菱鉱業株式会社に買収されました。大正元年(1912)には村内炭坑のほとんどが芳谷炭坑に併合され、名実ともに佐賀県第一の炭坑となりました。

 石炭産業により北波多は大いに栄え、大正9年(1920)には北波多の人口は1万7,000人を超えました(現在は約4,700人)。しかし大正12年(1923)の炭界不況以来、次第に規模は縮小され、昭和8年(1933)に芳谷炭抗はついに廃坑となります。

 開坑以来約50年間、盛況をきわめた岸山・芳谷地区もその後次第にさびれ、昔日の面影なく、ただ赤レンガ壁の坑口に昔をしのぶのみとなっています。

 この「第三坑」の坑口は貴重な炭坑史上当時を語る文化財であり、当時の記念碑でもあります