石炭は徳川時代の末期から昭和中期までの約百年間、燃料・エネルギー源として日本の経済を支えてきた重要な資源でした。 松浦川・厳木川流域の地下はその石炭の宝庫で、石炭産業は長い間、唐津の主要な産業の一つだったのです。
石炭は享保年間(1716~1735)岸山字ドウメキから、一農夫により偶然発見されたといわれています。佐賀県最初の発見であり、唐津炭田開発の端緒を開いたものとして知られています。
明治18年(1885)に開抗された芳谷炭抗は、明治、大正、昭和にわたり、佐賀県第一の大炭鉱として名実ともに最高の施設・設備を誇りました。最盛期には従業員2,000名を擁し、炭鉱関係の建物はもちろん、病院・学校・劇場・商店などが軒を連ねて立ち並び、北波多は大いに賑わいました。
大正9年(1920)には北波多の人口は1万7,000人を超えました(現在は約4,700人)。
昭和8年(1933)に芳谷炭抗は閉鎖され、終戦後に開抗された北波多内の他の炭鉱も、石油へのエネルギー転換等による石炭不況により、昭和37年(1962)7月に全て閉山となりました。